悩めるママの子育て徒然日記

30代主婦 三児の母 趣味は料理、散歩、読書 旦那さんからは『悩むことが趣味』と言われている

匂い

 我が家で愛用している日焼け止めが、販売中止になってしまった。

 我が家の子供ちゃん達は肌が弱い。

 子供ちゃん達が使えるものをと色々探し回ってようやく見つけたものだったから、残念である。

 また、一から新しいものを探さなければならないのは、頭が痛い。

 けれど、これから、ますます日差しが強くなっていく中、日焼け止めは必須だ。

 お陰で、しばらくの間、私の貴重なひとり時間は日焼け止め探しに充てられることになった。

 もともと使っていたものは、成分も強さもちょうど良かった。

 できれば同じようなものをと、ネットで検索してみる。

 日焼け止め自体は、沢山出てくる。

 けれど、望みのものは、なかなか見つからない。

 幾つか調べて、ようやく一つ、「どうかな?」というものを見つける。

 旦那さんにお願いし、早速、注文してもらった。

 日焼け止めが、我が家に届く。

 まずは、自分に使ってみる。

 塗り心地は悪くないし、肌あれもしない。

 これなら、子供ちゃん達にも使えるかな?

 休日に、子供ちゃん達に塗ってみる。

 肌荒れはしなかった。

 けれど、子供ちゃん達には残念ながら、不評だった。

 原因は『匂い』だ。

 言われてみれば、確かに、イチゴのような甘い香りとなんとも言い難い薬品?のような匂いがする。

 でも、本当に『微かに』だ。

 子供ちゃん達は、断固として譲らない。

「臭いから嫌だ」と言う。

 じゃあ、前の物はどうだったかというと、むしろ、しっかりとハーブの香りがついていた。

 そちらは許容範囲だったらしい。

『いや、ママだって、前のものが買えるなら、そうしたいよ・・・』

 よく調べてみたら、以前使っていたものには、姉妹ブランドがあるらしい。

 早速、検索してみる。

 以前使っていたものも、なかなかいいお値段だったけれど、そちらの商品はさらにその上を行く。

『なんとか、今ので慣れてもらえないかしら・・・』

 そんなことを思ってしまう。

 

 我が家の子供ちゃん達は、匂いに対して敏感である。

 一番驚いたのは、『生クリーム』だ。

 私は子供の頃から卵アレルギーのため、市販のケーキを食べたことがほとんどない。

 卵が入っているものが、ほとんどだからだ。

 なので、ケーキは毎回、母が焼いてくれた。

 私にとって、『ケーキを食べる』というのもいい思い出だけれど、『母と一緒にケーキを作る』というのもまた、子供の頃のいい思い出になっている。

 だから、子供ちゃん達ともケーキを一緒に作りたいな、と思っていた。

 子供ちゃん達が二人とも少し大きくなって、私自身も子育てに少し心の余裕が出来てきた頃、子供ちゃん達と一緒にケーキを作った。

 卵が使えないため、スポンジは少し硬めだ。

『市販のケーキをちょこちょこ食べている子供ちゃん達の口に合えばいいけれど・・・』

 と、スポンジに関しては少し自信がなかったのだが。

 出来上がったケーキを食べた子供ちゃん達。

 懸念していた通り、口々に「美味しくない」と言う。

『やっばり、スポンジが・・・』と、気落ちする私。

 けれど、どうやら違うらしい。

「この白いの取って」とケーキの上の方を指さす。

 どうやら、原因は生クリーム。

 子供ちゃん達曰く、「生クリームがお店のものと違う」らしい。

 私はあまり甘いのは好きでないので、砂糖の量は控えめにしていた。

『ああ、甘さが足りないのか』と、急いで、砂糖を加えてみる。

 けれど、これもだめだと言う。

「何がだめ?」と尋ねると、「匂いが違う」と答える。

 匂い?!

 一瞬、意味が分からず首をひねる。

 ただ、よくよく子供ちゃん達の言葉の意味を考えてみると、確かに、市販のケーキって、いい匂いがする気がする。

 私は市販のケーキを食べたことがあまりないから、すぐにはピンとこなかったけれど・・・。

 でも、匂いがなくても、味は変わらなくないか?
 結局、子供ちゃん達はご丁寧に、塗った生クリームを全部はぎ取って、スポンジと果物を美味しそうに食べたのだった。

 

 それ以来、なかなか、手作りケーキを作れないでいる。

 一度、ホワイトチョコを生クリームに混ぜてみたら、「少し、お店の味に近づいた」とお褒めの言葉を頂いた。

 けれど、残念ながら、しっかり食べてもらえるまでには至っていない。

 でも、まさか、本格的な生クリームを求められることになるとは!

 旦那さんに愚痴ったら、「素材の味がちゃんとわかる子供に育てたかったんでしょ」と言われてしまった。

 確かに、そうなのだけれど・・・。

 

 今は妊娠糖尿病になっているので生クリームの改良は中止している。

 でも、子供ちゃん達とケーキ作りがしたいから、また、体調が落ち着いたら、再開する予定だ。

 

 果たして、子供ちゃん達の舌に適う生クリームは作れるのか・・・?

 手作りケーキへの道は遠い。

奇襲

 それは、突然やってくる。

 朝、掃除機をかけていたら、私の数歩先にぽとりと何かが落ちてきた。

 思わず、後ずさる。

 目の前に落ちてきたそれは、そのまま床でばたばたとうごめいている。

 目を凝らして見てみると、蛾だった。

 しかも、そこそこ大きい。

 何故、よりによって目の前に落ちてきたのだろう。

 というより、今まで一体、どこにいたのだ?

 蛾は飛び立つことなく、ばたばたと羽を動かし、そして、少しずつ動かなくなっていく。

 もしかして、弱って落ちてきたのだろうか。

 それにしても、これをどうするか、だ。

 出来れば、近づきたくない。

 幸い、家にはまだ、幼稚園のバス待ちの下の子ちゃんが居たから、お願いしてみる。

「ねえ、下の子ちゃん。このカップをあそこにいる蛾に被せてきてくれない?」

 下の子ちゃんはカップを受けとると、躊躇うことなく蛾の傍に駆け寄っていった。

 そんな我が子を、頼もしく思う。

 下の子ちゃんは、ほんのすこしの間、蛾を眺める。

 そして、あろうことか、くるりと背を向けて、こちらに戻ってきたのだ。

「下の子ちゃん、カップを置いてきてよ」

 下の子ちゃんは、首を横に振る。

「ムリだよ。だって、あの蛾、生きてるもん」

 私の頭の中に『?』が沢山浮かぶ。

 いや、待て。あなた、生きてる青虫さん、手で摘んでますよね…。

 いくらお願いしても、断固として拒否する下の子ちゃん。

 このままだと埒外が明かないので、仕方なく、カップを被せに行く。

 小さなことだけれど、こういう時、親って辛いなって思う。

 恐る恐るカップを被せ、下から紙を差し込む。

 そのまま全部を落とさないように持って、玄関まで走っていく。

 もう、心臓はドキドキだ。

 そして、玄関の鍵を開けると、外へポイッと投げる。

 終了。

 しばらくしたら、カップと紙を回収する。


 幼稚園バスがくる時間になって、外に出る。

 どうやら蛾は、力尽きたようだ。

 下の子ちゃんが、「さっきの蛾だ」と言いながら、近づいていく。

 そして、「ママ、死んでるよ」と言うと、すっと蛾に向かって手を伸ばした。

「やめてっ」

 慌てて、下の子ちゃんの手を止める。

 本当に、あなた、死んでるのは触れるのね…。

 なんとも、複雑な心地になってしまった。


 そして、ある朝のこと。

 いつものように、旦那さんのお弁当を作っていた。

 その日のお弁当作りも、いよいよ大詰めを迎え、最後のおかず、キンピラゴボウを作っているときだった。

 フライパンでゴボウを炒めていたら、袖口に何かが付いていることに気付く。

 ああ、ゴボウか。

 けれど、そのゴボウの切れ端は、なにやらうごめいているのだ。

 一瞬、目を疑う。

 そして、それが何か気づいたときには、もう、言葉にならない叫び声をあげていたのである。

「旦那さん、助けて、助けて」

 いつもより、何オクターブも高い声をあげながら、寝室へ向かう。

 旦那さんが、「どうしたんだ」と、眠たげに目を擦りつつ寝室から出てくる。

「これ、これ、これ!」

 旦那さんの眼前に、腕を突き出す。

 旦那さんは一目それを見るなり、急いでティッシュペーパーを一枚持ってきて、それをそっと摘んだ。

「一体、何事かと思った」

 旦那さんがため息をつく。

 私は申し訳なくて、「ごめん」と謝る。

 でも、しょうがない。

 明らかに、私の許容範囲を越えていたのだから。

 私の袖口に乗っていたのは、白色のスリムだけれどそこそこ大きめな芋虫さんだった。

 なぜ、袖口にいたの?いつから、乗ってたの?どこから、来たの?

 聞きたいことだらけだけれど、とにかく目の前から消えてくれて助かった。


 その日の朝食時。

 子供ちゃん達にその話をしたら、「ああ。だから、ママ、あんな声出していたのね」と、上の子ちゃんに言われた。

「えっ。でも、起きてこなかったよね」と返すと、「あんなに大きい声出されたら、起きちゃうよ」と笑われる。

 まあ、そうだよね…。

 でも、ママ、久しぶりに、心臓が止まりそうだったわ。


 子供ちゃん達は、虫さんに興味津々だけれど。

 ゴメンね。

 ママは、やっぱり、虫さん、好きになれそうもないです…。

食欲不振

 新生活が始まってからしばらくして、子供ちゃん達は驚くほどよく食べるようになった。

 学校や幼稚園で、よく体を動かしてくるようになったからかもしれない。

 いい兆候だな、と見守っていたら、今月に入り程なくして、下の子ちゃんが急に食べなくなった。

 なんと、胃腸風邪である。

 夕飯をほとんど食べなかった次の日、ズルリと鼻水が出てきた。

 ああ、いつもの風邪だ。しばらく鼻水との格闘だ、なんて思っていたら、鼻水はその次の日には止まった。

 軽い風邪だったのか、と、ほっと一安心したのもつかの間。

 今度は、全く食事を食べなくなった。

 しかも、ぐったりと始終、横たわっている。

 そのうち、熱も出てきて、ますます心配になってくる。

 お昼頃にお腹が空いたと言うので食べさせたら、途中で吐いた。

 この時点で、もしかして、と、胃腸風邪を疑う。

 今まで、子供ちゃん達はどちらも胃腸風邪にかかったことはなかった。

 こういうときって、消化のよいものを食べさせればよいのかしら…?

 気を利かせて、下の子ちゃんに聞いてみる。

 「下の子ちゃん、お粥作ろうか?」

 提案したら、ギャン泣きされた。

 私の作るお粥、そんなにまずいかな…。

 なにが食べられるのか、よく分からない。

 本人に食べたいものを聞いてみる。

 胡瓜味噌、ハンバーグ、卵サラダ、フリカケお握り…

 いや、本当に食べられるの?と疑いたくなるものもあるけれど、とりあえず、お夕飯にご所望のものを用意する。

 そして、案の定、ほとんど残す。

 まあ、そうだよね、と思うものの、あまりのぐったり具合に心配になる。

 

 次の日に、病院へ行った。

 思っていたとおり、胃腸風邪。

 最近、流行っているらしい。

 吐き気止めの薬と腸内を整える薬をもらう。

 胃腸風邪は、とにかく菌が外に出るのを待つしかない。

 ゼリーなら食べられそうということで、食べさせてみるがやっぱり戻してしまった。

 それでも、ちょこちょこと頑張って食べている。

 そして、一日中、寝ている。

 下の子ちゃんのそういう姿を見ることはあまりないから、どうも落ち着かない。

 寝ている間に、何度か傍によって生存確認をしてしまう。

 三日目には元気になって、こちらがうんざりしてしまうほど部屋の中で遊び回っていたし、食欲もだいぶ回復してきた。

 なので、明日には幼稚園へまた行けるね、と話していた。

 

 けれど、四日目の午前中、またグッタリと寝込んでしまう。

 そして、お昼過ぎに目を覚まし、「幼稚園へ行く」と言い出す。

 流石にその調子で行かせるのは心配だったので、「明日、元気だったらね」と言ったら、大泣きしてしまった。

 よほど、幼稚園へ行きたかったようだ。

 気分転換に公園へ連れていくも、まだ本調子ではないらしい。

 少ししたら、自分から「もう帰る」と言った。

 その後は、少しずつ元気を取り戻し、お夕飯もそこそこ食べられた。

 

 そして、五日目。

「おはよう」と声をかけると、パチリと目を覚ました。

 目の輝き方が違う。

 お布団からスクリと立ち上がり、お着替えの服を持ってくる。

 「今日は行けそうですね」と言うと、力強くコクリと頷く。

 下の子ちゃん、完全回復である。

 

 よかった、よかったと思っていたら、今度は上の子ちゃん。

 お夕飯をほとんど残してしまった。

 お腹がいっぱいで、食べられないという。

 熱もなく、お腹が痛かったり、気持ち悪かったりするわけでもないらしい。

 どうやら、夏バテのようである。

 次の日の朝も、食べられないと言って、少し残す。

 念の為、連絡帳に夏バテ気味だということを書いておいたら、案の定、下校時に先生に伴われて帰ってきた。

 付き添って下さった先生曰く、足が痛いとか、暑いとか、体がだるいとか…。

 ぶつぶつ文句を言いながら、半泣きで帰ってきたようだ。

 上の子ちゃんの担いでいたランドセルを持ってみる。

 ずしりと重たい。

 上の子ちゃんはもともと、体力があまりない。

 それが、暑い中、これだけ重いものを毎日担いで帰ってきているのだ。

 疲れも相当溜まってきているのだろう。

 家に帰ってから、上の子ちゃんはずっと寝ていた。

 そして、お夕飯はほとんど食べられず、夜は「眠い」と言って、すぐ眠ってしまった。

 

 次の日。

 上の子ちゃんは、ついに、起き上がれなくなった。

 幼稚園の頃も、毎月1、2回そういうことがあった。

 疲れがピークに達するとずっと、眠り続けてしまうのだ。

 その間は、何をしようとも、絶対に起きない。

 小学校に入ったら、重いランドセルを背負って、しかも、歩いて通わなければならない。

 だから、もっと、頻繁にこういうことが起きるのではと心配はしていた。

 なので、むしろ、6月までよく頑張ったな、と思う。

 しっかり眠って、お昼頃、ようやく目を覚ます。

「何なら食べられそうか」と聞いたら、「助六がいい」と言う。

 一緒にスーパーへ行き、食べられそうな物を買いに行く。

 お昼はそこそこ食べて、疲れたのか、また、眠ってしまう。

 そして、お夕飯。

 元気なときに食べていた量の、三分の一くらいしか食べられなかった。

 

 次の日。

 朝から暑くて、ついにクーラーをつける。

 私はクーラーをつけると喉を痛めやすくなるから、本当はつけたくなかったのだけれど。

 でも、そのお陰か、その日のお夕飯はほとんどご飯を食べられるようになった。

 そういえば、上の子ちゃんは「暑いのも嫌。寒いのも嫌。ちょうどいい温度じゃないと生きていけないの」なんて、よく公言していたっけ。

 親としては、もうちょっと、逞しく生きてくれなんて思ってしまうのだけれど。

 旦那さん曰く、「上の子ちゃんは前世、高貴の出なのだろう」と。

 色々と思い当たる節がありすぎて、納得してしまう。

 それにしても、今年はクーラーをつけるのが早かったな、と思う。

 そして、上の子ちゃんの夏バテは、クーラーのスイッチ一つで解決したか、と拍子抜けする。

 

 さてさて、これで子供ちゃん達の食欲は戻ったわけだけれど。

 今度は私の食欲不振だ。

 原因は胃腸風邪でも、夏バテでもない。

 お腹の子が大きくなったことによるものだ。

 お目覚めのときは、始終、お腹の中で好き勝手に暴れてくれる我が子。

 ご飯を食べているときなんて、これでもか、というくらい、胃袋を蹴ってくる。

 お陰で、気持ち悪くて、あまり食べられない。

 君のためにも食べてるのだから、せめて食事中だけは少しおとなしくしてよ、と思ってしまう。

 

 この時期になると、体が辛くなってきて、早く生まれてほしいなと思う。

 そして、産後、三ヶ月くらいの夜泣きが大変な時期は、もう一度お腹に戻せたらいいのに、なんて思うのだ。

 ゆらゆらと、まるで天秤のように揺れ動く心内。

 子供ちゃん達二人をそれぞれ妊娠していたときを思いだし、懐かしいな、と思う。

 

 それにしても、私の食欲不振はこれから、出産するまで続くわけで…。

 今は、やっぱり、早く生みたいな、と思ってしまうのであった。

 

冷凍バナナ

 我が家では、毎朝、朝食のデザートとしてバナナを食べる。

 けれど、この暑さのせいで、置いてあるバナナの熟成具合が早くなってきてしまった。

 これでは、食べきる前に腐ってしまう。

 そこで、バナナの表面が黒い点々で覆われてきたものは、適当な大きさにちぎって冷凍することにした。

 冷凍しておけば保存がきくし、暑い日の子供ちゃん達のおやつにちょうどいいのだ。

 

 冷凍バナナと言うと、ひとつ怖い記憶がある。

 上の子ちゃんが小さなころ、冷凍バナナを喉に詰まらせたのだ。

 当時、冷凍バナナは喉に詰まらないよう、いつも、薄くスライスしていた。

 けれど、どういうわけか、何かの拍子に呑み込んでしまったらしい。

 最初は、美味しそうにぱくぱくと食べていた。

 それが、途中で、急に喉を抑え始めたのだ。

 様子がおかしいと思い、慌てて傍に駆け寄って気づく。

 大変だ!喉に詰まってる!

 ちょうど、旦那さんがトイレに入っている時だった。

 上の子ちゃんの背中を必死に叩きながら、「早く来て!」とトイレに向かって叫んだ。

 けれど、旦那さんがトイレから出てくる気配はないし、上の子ちゃんの喉からバナナは出てこない。

 どうしよう。

 119番に電話をしたいけれど、その時間さえ惜しい。

 ハイムリッヒ法?

 うろ覚えでやってみるけれど、正確なやり方ではないからか出てこない。

 思い切って、上の子ちゃんを逆さにひっくり返して背中を叩く。

 これもだめだ。

 掃除機を口の中に突っ込むか?

 そんなことで取れる気がしない。

 そのうち、上の子ちゃんの身体が痙攣する。

 どうしよう!

 本当はいけないけれど、一か八かで喉に指を突っ込んだ。

 指先がバナナに触れる。

 そして、ちょうどバナナと喉の間に隙間があることに気付く。

 隙間に指を入れ、指先にバナナを引っかけた。

 指に力を入れて、一気に取り出す。

 取れた!

 上の子ちゃんがごほごほと咳込む。

 私はほっとして泣いてしまった。

 何喰わぬ顔で、旦那さんが部屋に入ってくる。

 私の呼ぶ声が、聞こえていなかったのだ。

 それでも、私は構わず、怒ってしまう。

「あなたがトイレに入っている間に、この子が死ぬかもしれないところだったのよ!」

 ちょっとしたことで、子供の事故は起きる。

 本当に怖い。

 それ以降、バナナは小さく刻んで冷凍することにした。

 

 子供ちゃん達が大きくなってきて、歯が丈夫になったこと、それから、こちらの言うことをちゃんと理解してくれるようになったことを踏まえて、今はバナナを一口サイズよりも大きめにちぎって冷凍している。

 そして、子供ちゃん達には少し溶けかけたバナナを渡すようにし、口の中に一気にいれないこと、少しずつ齧りながらゆっくり食べること、をいつも言い聞かせている。

 

 さて、我が家ではそんな苦い記憶のある冷凍バナナなのだが・・・。

 ある朝のことだ。

 朝食のデザートにバナナを出そうとしたら、何本かのバナナの表面が黒い点々で覆われていた。

 このままだと、あと2,3日もしたら痛んでしまうだろう。

 そう思った私は、冷凍バナナを作ることにした。

 冷凍バナナの作り方は簡単だ。

 ビニール袋に、皮をむいたバナナを一口サイズより大きめにちぎって入れ、冷凍庫に放りこむだけ。

 早速、バナナの皮をむき、ちまちまとバナナをちぎっていると、何やら視線を感じた。

 下の子ちゃんだな、と思う。

 気づかぬふりをして、そのまま作業していたら、今度は踏み台を私の横に持ってきた。

 そして、台の上に乗り、私の手元を覗き込む。

「バナナが沢山ありますねえ」

「だって、上の子ちゃんも下の子ちゃんも、冷凍バナナ好きでしょう?」

 下の子ちゃんは「うん」と頷いて、袋の中に入っているバナナを凝視している。

「今、バナナを見ているの。ジーと見ているの」

 そうだねえ、と私はわざとのんびりした口調で答える。

 下の子ちゃんの言いたいことは、よーくよーく分かっている。

 でもね。あなた、さっき、朝食のデザートにバナナ食べたばかりでしょ。

 私は、そのまま黙々とバナナをちぎる。

 すると、下の子ちゃん。

 次の作戦に打って出た。

「ねえねえ」

 下の子ちゃんが、私の肩をぽんぽんと叩く。

「見て、見て。このお口」

 見てしまうと、下の子ちゃんの目論見通りになりそうな気がして、振り向けない。

「今ね、お口を開けて待ってるの。じーとじーと待ってるの」

 じりじりと、下の子ちゃんが迫って来る。

「バナナが入ってこないかなぁって」

 耐えきれなくなって、笑ってしまう。

 ちらりと下の子ちゃんを見ると、目が合う。

 下の子ちゃんは、口をちゃんと大きく開けて、キラキラした目でこちらを見ている。

 ああ、負けたな。

 私は冷凍庫を開け、すでに凍っているバナナを取り出す。

「お一つ、どうぞ」

 下の子ちゃんはにんまりした顔で、凍ったバナナを受取る。

 そして、口にバナナを押し込もうとする。

「一気に入れたらダメですよ。ゆっくり少しずつ食べてください」

 下の子ちゃんは頷いて、バナナをちまちまと齧り始めた。

 そんな下の子ちゃんを眺めながら、今日も可愛いなあ、なんて思ってしまったのだった。

 

新型出生前診断(NIPT)

  • あくまで、現在、私の受診している産婦人科や私が検査を受けた専門機関の話であって、他の産婦人科・専門機関も同一かは分かりません。
  • 場合によっては、ご不快な思いをされる方もいらっしゃるかもしれません。ご注意ください。

 

 三人目を授かったと知ったとき、私にはいくつか懸念することがあった。

 その一つが、高齢出産になるということだ。(後で知ったことだが、経産婦の場合は40歳以上をいうらしい)

 私は三十半ばを超えている。

 年を重ねるにつれ、妊娠すると身体にかかる負担が増えていくことは知っていた。

 いくら、二人の子を無事に産んだとはいえ、三人目の時もそうなるとは限らない。

 自分に何かあったら、子供ちゃん達のお世話は誰がするのか。

 心配でならなかった。

 そこで、妊娠が分かって早々に、産婦人科の先生に相談した。

 すると、「ああ、そのことですね」と先生は答えて、私にぺらりと一枚の紙を渡した。

 渡された紙には、『出生前診断』と書かれてあった。

 それもあったか!

 私は心の中で呟く。

 幸い、子供ちゃん達は今のところ、何事もなく育っていた。

 だから、頭の中からすっぽりと抜けていたのである。

出生前診断

 私は出生前診断について、必死に思い出す。

 確か、妊娠中に赤ちゃんの染色体異常を調べる検査だよね。

 検査方法は、羊水検査。

 でも、羊水検査は破水する可能性があるからしたくないな。

 そう思いながら、先生の説明を聞いていたら、今は血液検査(NIPT)でもわかるという。

 ただし、調べられるのは三つ(21トリソミー・18トリソミー・13トリソミー)の染色体のみ。

 しかも、費用は十万を超える。

 それでも、血液で分かるのなら、流産などのリスクは少ない。

 受けておいてもいいかも。

 心が少し動く。

 説明を聞き終えた私は、「家に持ち帰って、少し考えてみます」と答えた。

 家に帰った後、私はすぐ、旦那さんに報告した。

出生前診断を受けようと思っているの。一応、ここに資料があるから目を通しておいて」

 旦那さんは「分かった」と言った。

 でも、今、振り返ってみると、この時は、本当になにも考えていなかったな、と思う。

 ただ、血液で出来るという手軽さに、私は惹かれていたのだ。

 そして、再度このことと真剣に向き合うことになったのは、受けるかどうか本格的に決めなければならなくなった時。

 それまでの間、私は悪阻と向き合うので精いっぱいで、全く他のことを考える余地はなかった。

 

 何度目かの妊婦検診を受けた際に、先生からまた、『出生前診断』を受けるかどうか尋ねられた。

 そういえば、そんなことを相談していたな、と思い出す。

「血液検査なら、少し考えています」と答えると、「NIPTのことですね」と言い直される。

 そして、「NIPTは当院ではできないため、決められた専門機関に紹介状を書きます」と言われる。

 えっ。違う病院にいかなければならないの?なかなか、面倒なことになりそうだな、と思う。

 さらに、受けられる期間が限られているため、次の妊婦検診の時には決めておいてくださいね、と念を押される。

 というのは、NIPTは、精度は高いものの、非確定検査だ。

 この検査で陽性と出ても、これで診断が確定したとはいえない。

 さらに、確定検査である羊水検査などを受け、その結果で妊娠継続の有無を決める。

 妊娠を中断できる期間は法律で定められているから、それまでに、羊水検査などの確定検査の結果まで出ていないといけない。

 そのため、逆算して、NIPTを受ける期間もだいたい決まってくる。

 いきなりたくさんのことを言われて、混乱する。

 ただ、とにかく、来月までに決めなければならないことは分かったから、急いで、資料を読み直さなければ、と思う。

 

 悪阻と闘いながら、資料に目を通す。

 年を重ねるごとに、染色体に異常を持つ子供が生まれてくる確率が増えていくようだ。

 自分の該当する年齢だけを見てみると、それが多いのか少ないのかよくわからない。

 けれど、下の子ちゃんを産んだ年齢の時と比べてみると、分母の数字が半分くらいになっている。

 数字って怖い・・・。

 そして、よくよく読んでみると、分からないことが出てくる。

 それらをネットで検索し、最終的には二つの懸念が浮き彫りになった。

 一つ目は、NIPT検査でも、偽陽性(間違って陽性と判断されてしまうこと)の可能性が少なからずある。

 その場合、羊水検査をするのだが、もし、偽陽性で羊水検査を受けて破水するということはありえないか。

 そして、二つ目は、とてつもなく大きな問題だが、もし、陽性と確定した場合、私はお腹の子をあきらめられるのか。

 特に、二つ目については、どうして、もっと早くそのことについて思い至らなかったのかと、自分の考えの浅はかさに愕然とした。

 多分、自分なら大丈夫だと高をくくっていたのだ。

 ただ、一応、念の為に受けておこう。

 そんな軽い気持ちだった。

 でも、実際に改めて資料を読み直してみると、自分の身にも起こりうるのではないか、と思ってしまう。

 そうなったとき、日に日にお腹の中で成長していく我が子を、途中でお腹から取り出すことができるのか。

 想像するだけで、ぞっとする。

 検査はやめた方がいいのかもしれない・・・。

 私の中に迷いが生まれる。

 

 旦那さんに相談する。

「実は、検査を受けていいものか悩んでいるんだ」

 そう言うと、旦那さんは「受けるって言っていたから、受けるものだと思っていた」と言った。

 確かに、そうなのだけれど。

「でも、もし、検査で陽性と出たら、あきらめなければならないの?」

 私の問いに旦那さんは、「君はどうしたい?」と言う。

「正直、感情的には産みたい。でも、もし、その子を産んだとして、その子にとってこの社会が生きやすいかといったら・・・」

 これは、あくまで私の独断と偏見だけれど、生きづらいだろうなと思ってしまう。

 旦那さんに相談する前に、NIPT検査で診断できる染色体異常を持って生まれた子供について、色々とネットで調べたり、実際に子育てされている親御さんのブログを拝読したりした。

 正直なところ、自分に育てられるのか分からなかった。

 なぜなら、その子その子によって、出来ることは違うだろうし、それは成長していく過程でわかっていくことだから。

 今まで、上の子ちゃんと下の子ちゃんは兄弟間でお互い刺激し合って、成長してくれていた。

 なので、もしかしたら、兄弟の中で育つことによって、うまくいくのではないか。

 なんて、楽観的に考えることもあった。

 けれど、反対に、もしかしたら、私たち夫婦がその子にかかりきりになって、子供ちゃん達のことは疎かになってしまうことだってあるかもしれない。

 それに、まだ私たち夫婦が元気なうちはいい。

 私たちが死んだ後、その子はどうなってしまうのか。

 自分で生活できているなら良いけれど、助けが必要な場合は?
 考えれば考えるほど、自信が無くなってくる。

 

 上の子ちゃんの時は、とにかく、子供が欲しかった。

 下の子ちゃんの時は、兄弟が欲しいな、と思った。

 そして、今、三人目の子を授かって、まさか、自分の年齢のことで大きな壁にぶつかるとは思いもしなかった。

 検査を受けられるという選択肢が増えたおかげで、悩んでいる。

 なんとも、皮肉なことだ。

 あと、数年、授かるのが早ければ・・・。

 いつ産むにしたって、少なからず可能性はある。

 なのに、そんなことを、思ってしまう。

 

 その後、何度か旦那さんと話し合ったけれど、検査を受けるかどうか、結論は出なかった。

 なので、次の妊婦検診の際に、もう一度、産婦人科の先生に相談することにした。

 

 コロナ禍のため、本来なら院内に入れるのは妊婦のみだが、その時は特別に、夫婦で先生とお話させてもらえることになった。

 まず、一つ目の懸念、NIPTで偽陽性だった場合、羊水検査を受け破水してしまうということはありえないかについては、わずかではあるがあったとのことだった。

 そもそも、染色体に異常がある子の場合、羊水を包んでいる膜も弱いらしい。

 なので、破水してしまう可能性がある。

 ただ、時として、わずかだけれど異常がない子でも破水してしまうことはあるらしかった。

 ならば、羊水検査など破水する可能性のある検査ではなく、例えばエコーなどで診断することはできないのか、についても聞いた。

 確かに、そういう方法もなくはないが、診断できる先生はかなり限られていると言われた。

 他にも、分からなかったことをいくつか質問する。

 初妊婦と経産婦の場合、染色体異常の確率は同じなのかについては、卵子の劣化は経産婦も初妊婦も同じであること、そして、兄弟に染色体異常があった場合、生まれてくる子もそうなる可能性は『ある』と言えるが、反対に、兄弟に染色体異常がないからと言って、生まれてくる子も『ない』とは限らないと言われた。

 先生は時間を掛け、親身になって相談に乗ってくれた。

 けれど、結局のところ、まだ、検査を受けるか決められない。

 そこで、とりあえず、先生に紹介状を書いてもらい、専門機関でより詳しく話を聞いて決めることにした。

 

 専門機関へは予約を取らず、朝一で直接赴いた。

 かなりの待ち時間を要したが、昼前には診察をしてもらえた。

 私は、この時、どういう流れで検査を行うのか、分かっていなかった。

 なので、その日に話が聞けると思ったが、そうではなかったらしい。

 次回の診察の際に、検査についての詳細な説明を受けたうえで、血液検査を希望する場合は血液の採取をするとのことだった。

 私達としては、出来れば初日に詳しい話を聞いたうえで、考える時間を設けてもらって血液検査に望みたかった。

 なかなか、思っていたとおりにはいかないものだ。

 

 二回目の診察日。

 担当の先生は、物腰の柔らかい先生だった。

 資料を私たちに見せながら、ゆっくり説明してくださった。

 お話の途中で、いくらか質問させてもらったが、一度も嫌な顔をせず、むしろ、「良く調べてから来てらっしゃるのですね」とおっしゃって、より、詳しいことを色々と話してくださった。

 その中で、『絶対大丈夫です』とは言えませんが、と、先生は前置きをされたうえで、私がこの専門機関に赴任してから、今のところ羊水検査の際に破水をしたことはありません、と言われた。

 また、この検査は母体の血液から子供の遺伝子を調べる検査なので、調べる過程でもしかすると、母体の不利益な情報(例えば、癌になりやすい等)が見つかってしまうかもしれないということも告げられた。

 

 他にも、どれくらいの確率で偽陽性が出るのかとか、疑問に思っていること、不安に思っていることを先生にぶつけた。

 聞きたいことが出尽くしたところで、「この後、検査を受けますか」と、先生に尋ねられた。

 もちろん、もう一度、家に持ち帰って後日改めて受けることもできる。

 さて、どうしようか。

 正直なところ、ここ一か月以上、このことで悩み続け、脳みそは疲れ切っていた。

 けれど、心はまだ、定まらない。

 ただ、これ以上、先伸ばししたところで、自分にとっての明確な答えは見つからない気がした。

 だから、受けるか受けないかは今、決めるしかないと思った。

 私は一度気になったことは、ずっと気にしてしまう性分だ。

 その性分から言って、今回、検査を受けなかったら、産んだ後もずっと、この子はどうなのだろうか、と悩み続けるだろうと思った。

 だとしたら、おそらく、受けた方がいい。

 旦那さんが「どうする?」と、こちらを見る。

「受けるよ」と私は答える。

 

 血液を採取する。

 結果は二週間くらいで出るので、それくらいあけたところで次の予約日を決める。

 もし、結果が予約日までに出そうにない場合や陽性だった場合は、予約日の2、3日前までに電話が来るらしい。

 特に、陽性だった場合は結果を聞き終えた後、帰宅途中に何かあるといけないので付き添いの人も一緒に来るようにと伝えられる。

 なので、次の予約日までになにも電話が無ければ、陰性ということになる。

 とにかく、この二週間、電話が来ないよう祈るしかない。

 

 三回目の診察日。

 前日まで、電話は無かった。

 なので、ほぼ陰性であろうと思いながら、名前が呼ばれるのを待つ。

 待っている間に、ネットニュースで『新型出生前診断の年齢制限撤廃』の記事を目にする。

 名前を呼ばれ、部屋に入ると、以前説明してくださった先生とはまた違う先生だった。

 先生と向き合うように椅子に座る。

 先生が一枚の紙を私たちの前に差し出す。

「検査結果は陰性でした」

 おそらくそうであろうとは思っていたけれど、やはり、安堵する。

 渡された紙には、図や言葉がいくらか書かれていた。

 そして、とりわけ目の引くように『陰性』という文字が書かれていた。

 先生が、図や言葉について簡単に説明していく。

 ほんの2、3分くらいの短い説明だ。

「ほかに聞きたいことはありますか」と尋ねられ、母体に不利益な情報があったかを聞く。

「無い」とのことだった。

 また、NIPT検査についてネットで検索していた際に、この検査で性別が分かるというのを目にしていたので、ついでに聞いてみると、「あくまでこの検査は3つの染色体のみを調べる検査なのでわかりません」との答えが返ってきた。

 結局、それ以上、聞くことは無かったので、私たちは部屋を出た。

 これで、長きにわたって悩み続けたNIPT検査は終了した。

 

 帰りの車の中で、私は、その時思っていたことを口にした。

「『陰性』って結果が出たら、自分はもっと大喜びすると思っていた」

 そう。「良かった!」とか大きな声で言いながら、はしゃいでいると思っていた。

 でも、実際は全然違う。

 身体も心も酷く疲れ切っていて、

『ようやく解放された・・・』

 そんな心地だった。

 大げさかもしれないけれど、それだけ、私には大きな決断を迫られる検査だった。

「結果が『陰性』だったから良かったけれど、もし、『陽性』だったとしたら、今、自分がどんなになっているか分からないよ」

 いくら泣いても、泣き足らないだろうと思う。

 そうならなくて、本当によかった。

 ただ、それだけだ。

 

 これから、新型出生前診断の年齢制限が撤廃されるらしい。

 私が悩みすぎるのかもしれないけれど、もしかしたら、私のように受けるかどうか悩む人も出てくるのではないか、と思う。

 正直なところ、私自身、受けてよかったのかはいまだに分からない。

 もちろん、検査を受けたおかげで、3つの染色体の異常が『ほぼ』ないことは分かった。

 でも、決して100%ではない。

 そして、三つの染色体以外のことは、結局のところ、生まれてみなければ分からない。

 

 今回の検査を受けて、また、新型出生前診断の年齢制限が撤廃され、より、多くの人たちが検査を受けるであろうことを踏まえて、思うことがあるとしたら、この検査が絶望を産むものであって欲しくないな、と思う。

 人それぞれ、考え方も受け止め方も違うけれど、私自身は、お腹に宿った命をあきらめたくないと思ってしまう人間だ。

 だから、これはあくまで理想論だけれど、この検査等々を受け、『陽性』と診断されたのなら、どうしたらこの子が生きられるのか、生かすことを前提に、専門家の方々の協力や充実した支援を受けられるような制度も一緒に整えていって欲しい。

 どうか、希望のある制度になっていきますように。

 そんなことを願ってやまない。

 

 

 

 

 

 

 

ミシン

 最近、ミシンを使っている。

 といっても、そう頻繁ではない。

 ちょこちょこと、だ。

 そもそも、私はお裁縫が得意ではない。

 特に、ミシンとの相性はすこぶる悪い。

 だから、今まで、ミシンとは縁遠い生活をしていた。

 

 私は、物を作ることは好きだ。

 けれど、お裁縫だけは昔からどうもダメだった。

 母はお裁縫が得意で、よく、服や小物を色々と作ってくれた。

 当然、私も興味を持って、両親におもちゃのミシンを買ってもらった。

 初めて作ったのは、巾着袋。

 ナフキンやコップは入るくらいの大きさだ。

 もちろん、手順書通りに作った。

 見た目は、どう見ても巾着袋。

 なのに、中を開けて驚く。

 物を入れる余地が、飴玉二個分くらいしかない。

 なぜ、こうなった?

 未だに謎である。

 

 忘れもしない。

 中学三年の頃だ。

 家庭科でスモッグを作ることになった。

 その当時の家庭科担当の先生は、とても厳しいと有名な人だった。

 毎回、その時間内にやるべきことが黒板に書いてある。

 それができないと、居残りになる。

 私は、毎回、居残り組だった。

 特に、縫う段階になると、それが顕著になる。

 なぜか、ミシンが故障するのだ。

 つい先ほどまで、他の人が使っていた時は順調に動いていたのに、である。

 おかげで、毎回作るのを中断して、ミシンを直さなければならない。

 ミシンの縫い具合が悪かった時には、糸を解くという手間も加わる。

 真っすぐに縫えていない時や、縫うところを間違える時もあって、やっぱり糸を解く。

  何度も糸を解いたせいで、布が傷んでくる。

 段々、やる気が失せてくる。

 居残りしても終わらなくて、何度も家に持ち帰った。

 家のミシンは学校とは違い足踏みミシンではなかったので、いちいち手で停止ボタンを押さないと動いたり止まったりしない。

 それが、ミシンの不慣れな私にとっては、大きな難関だった。

 片方の手でミシンのボタンを押しつつ、まっすぐに縫うという作業ができないのだ。

 仕方ないので、一番遅い速度で縫う。

  そうやって、ちんたらと作業していると、見かねた母が「遅い!」と言って、速度を勝手に早くする。

 私は当然、そのスピードについていけず、ミシンを止めようと停止ボタンに気を取られる。

 結果、縫うところが大幅にずれ、また、縫いなおしとなる。

 

 スモッグ作りが終盤に入ると、大幅に遅れが目立つ私は、先生に一対一で教わるようになった。

 それでも、スムーズにいくことはなく、やっぱり、いつも居残り組だった。

 そして、ようやくスモッグが完成した時、もう二度と作るものかと思った。

 

 出来上がったスモッグは、授業内に採点された。

 一人ひとり、名前が呼ばれ、先生の元へ持っていく。

 そして、先生がスモッグの出来を確認し、持っているノートに何やら書き込んでいく。

 いよいよ、私の番になる。

 恐る恐る手渡すと、先生はゆっくりと時間を掛け、表側はもちろん、裏側にも返して、指示通りに作っているか隅々まで確認する。

 私はドキドキしながら、採点が終わるのを待つ。

 先生が顔を上げる。

「出来上がるまで、本当に長かったわねえ。完成して良かった」

 感慨深げに言う先生の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 

 それからの人生、ミシンを使うことは、もうないだろうと思っていた。

 けれど、上の子ちゃんが幼稚園に入ることになって、問題が発生する。

 幼稚園に行くようになると、上履き入れや給食袋など、色々と布物が入用となる。

 それらは大抵、お店で売っているのだけれど、中には大きさが細かく指示されているものもあって、そういうものは探してもなかなか見つからないのだ。

 そんな時、ふと、思ってしまう。

 ああ。ミシンが使えればいいのに・・・。

 そうしたら、布さえ買えば用意できてしまうのだから。

 無論、自分のミシンの腕の下手さを棚に上げて、である。

 

 その頃、下の子ちゃんがまだ小さくて手がかかったから、到底、ミシンを買って作るなんて考えられなかった。

 なので、ダメ元で、母に助けを求めてみた。

 すると、あっさりと引き受けてくれて、無事、用意することができたのである。

 ただ、この時、母から言われた。

「もう、これっきりだからね」

 

 コロナ禍になったとき、不織布マスクが手に入らなくなった。

 なので、何日か同じものを使えるよう、マスクカバーを作ったり、下の子ちゃん用の小さなマスクを作る必要が出てきた。

 この時は、手縫いで作った。

 布の厚みのある部分を縫うときは特に、手は痛くなってくるし、時間もかかる。

 こんな時、ミシンが使えたらいいのに、と何度も思った。

 

 そして、いよいよ下の子ちゃんが幼稚園に入園することになった。

 その時、私の頭の中に真っ先に浮かんだのは、これから先、雑巾を倍作ることになるのだな、ということだ。

 幼稚園では毎年、二枚、雑巾を提出しないといけない。

 小学校も一緒だ。

 計四枚。

 めんどくさいなあ、と思ってしまう。

 旦那さんにそのことを話すと、「雑巾なんて、今時、百均で売ってるよ」と返された。

 そうなのだけれど、なぜだか、今まで作ってきた身としては、どうも、雑巾を買うことが釈然としない。

 しかも、下の子ちゃんの幼稚園用の小物類もまた、揃えなければならない。

 段々、悩むのが面倒になってきた私は、『この際だから、ミシンを買って全部作ってしまおう』なんて、安易に考えてしまったのである。

 

 早速、旦那さんと交渉する。

 旦那さんはお金もだけれど、時間も大切にする。

「わざわざ、苦手なことに時間をかけるくらいなら、お金で解決すればいいんじゃないか」と言う。

 本当に、毎回、ごもっともである。

 でも、もし、ミシンが使えるようになったら、出来ることが増えるかもしれない。

 私の胸の内は、なぜか根拠のない希望で溢れている。

 喉元過ぎれば熱さを忘れる。

 学生時から、早、数十年。

 あまりにも時間がたっていたのだろう。

 あんなに苦労したはずなのに、すっかり忘れている。

 

 それから、どのミシンを買うか、ものすごく調べた。

 なるべく使いやすいもの。

 面倒なことを、なるべく自動でやってくれるもの。

 評価の高いもの。

 ようやく見つけたミシンは、旦那さんにはなかなか言い出せないほど高かった・・・。

 

 旦那さんに相談し、ミシンを買ってもらうことになった。

 値段を言った時には、旦那さんも少しためらっていた。

 けれど、最後は私のやる気を買ってくれた。

 そして、厳重に緩衝材に包まれたミシンが、ついに我が家に届く。

 ずっしりとした重みのあるミシン。

 これは、頑張って、使えるようにならねば!

 そう思っていた矢先。

 絶妙なタイミングで、妊娠が発覚し、悪阻がやって来た。

 

 今回の悪阻は三度目にして、一番ひどいものだった。

 点滴を何本も打った。

 水を飲むのもままならず、ほとんど寝ている状態だった。

 結局、下の子ちゃんの幼稚園グッズは、買えるものは買って、あとは上の子ちゃんが使っていた物を使い回すことにした。

 上の子ちゃんは年少・年中時、あまり幼稚園に行けなかったので、思いの他、使っていたものが奇麗だったのだ。

 こうして、ミシンは活躍する場なく、棚の奥にしまわれたのだった。

 

 ようやく悪阻が治まった四月。

 棚の奥からミシンを取り出した。

 そのうち、買ったことを忘れてしまいそうで、ずっと、気がかりだったのだ。

 とりあえず、説明書を読みながら、ミシンがすぐ使えるように準備していく。

 ある日は、ミシン糸を買いに行く。

 ある日は、ボビンに糸を巻き付ける。

 ある日は・・・。

 一気にやると嫌になりそうなので、日を分けて、少しずつ進めていった。

 

 そして、ついに、ミシンで布を縫ってみた。

 縫ってみて、驚いた。

 縫うスピードはゆっくり。

 下糸も上糸の調整も奇麗で、スムーズに縫えるのだ。

 しかも、途中で厚みがあっても、勝手に調整してくれる。

 これ、すごくないか・・・。

 早速、古びたタオルを引っ張り出し、雑巾を縫う。

 ミシンは一度も詰まることなく、縫い進めていく。

 一枚、二枚・・・。

 気づけば、四枚も縫えていた。

 私はすっかり、有頂天だ。

 夜、仕事から帰って来た旦那さんに報告する。

「今日、雑巾が四枚も縫えたよ!」

「お、おう」

 旦那さんは少し、戸惑い気味に返事をする。

 そりゃそうだ。

 雑巾を縫ったそのミシン一台で、一体、何枚の雑巾が買えるのか。

「す、少しずつ、使えるようにするから・・・」

 居た堪れなくなった私は、そんなことを口走った。

 

 次に縫ったのは、上の子ちゃんのマスク入れだ。

 上の子ちゃんが持ってきた、学校のお便りに書いてあった。

 これから夏に向けて暑くなるので、授業でマスクを外す機会が出てくる。

 その際に、マスクを入れておくものを持ってきて欲しいとのことだった。

 マスク入れって、何だろう?

 巾着袋だと、少しかさばる気がした。

 思いついたのは、袱紗のようなもの。

 でも、そんなものどこで売っているのだろう?
 ネットで探してみると、プラケースやビニール製の袋が出てくる。

 できることなら、洗濯できる布製がいい。

 それなら、自分で作ってみようかしら。

 頭の中で、どうやったら簡単に作れるか考える。

 布はちょうど、旦那さんのいらなくなったハンカチがあった。

 型紙もなく、いきなり作れるかは若干不安だけれど、せっかくだから作ってみることにする。

 ハンカチを必要な大きさに切って、早速、ミシンで縫っていく。

 ミシンの性能がいいお陰で、思い通りに縫えていく。

 自分の腕前がいいと勘違いしてしまいそうだ。

 時折り、手を止めて、どう進めるか考えながら作っていく。

 時間はかなりかかってしまったし、見栄えもあまりよくないが、三枚作ることができた。

 果たして、上の子ちゃんは、使ってくれるだろうか・・・。

 学校から帰って来た上の子ちゃんに、早速作ったマスク入れを渡す。

「あっ。パパのハンカチで作ったんだ!」

 どうやら、及第点は採れたらしい。

 ランドセルに無事、入れてもらえた。

 

 それからというもの、ポチポチとミシンを出しては縫っている。

 この間は、頂いた妊婦用の服の裾直しをした。

 昔の私なら、サイズの合わないものは、どこかにしまったまま放置して、結局、着ないまま最後は処分していた。

 けれど、今は、思い立ったらすぐ、直すことができる。

 もちろん、まだ始めたばかりなので、粗はある。

 近くで見られたら、おそらく、直したことがばれてしまう。

 でも、遠目でだったら、なんとか誤魔化せる気がする(?)

 

 ずっと、自分にはできないと思っていたけれど。

 時には、もう一度、思い切って挑戦してみるのもいいかもしれない。

 いくつになっても、やっぱり、新しいことができるようになるのは嬉しいし、そのおかげで世界が広がって行くのはワクワクする。

 現在の目標は、お腹の子の入園グッズを作ること。

 当分先のことだけれど、その間に、コツコツ腕を磨いていこうと思っている。

子宮外妊娠

 ※ 随分昔のことなので、多少、うろ覚えの箇所があります。ご理解いただければ、 

   幸いです。

 

 私の両親は不妊治療の末、私を授かった。

 双方に原因があったらしい。

 旦那さんと結婚する前に、そう母から告げられた。

「もしかしたら、あなたも子供ができにくい体質なのかもしれない。もし、そうであっても、自分をあまり追い詰めないでね」

 

 そういう経緯があって、私は早くから子供を作りたいと思っていた。

 結婚して、一か月ちょっとたった頃から、私は体調がおかしくなった。

 身体のあちこちの筋肉が強張って、だるかったり、痛かったりする。

 そのうち治るだろうと放置していたら、段々痛みが増してきて、ついには寝込むようになった。

 旦那さんは、仕事から帰って来ると、マッサージをしてくれるようになった。

 そうすると、だいぶ身体が楽になった。

 

 ある晩のこと。

 夜中に目が覚めた。

 いつものように、身体のあちらこちらが痛い。

 ただ、その日はそれだけではなくて、片方の脇腹も痛んだ。

『ちょっと、危ない気がする』

 隣で寝ていた旦那さんを起こした。

 起きて早々、マッサージをしてくれようとする旦那さんを止める。

「なんか、今日はお腹も痛むんだ・・・」

 その一言で、旦那さんは察してくれた。

「今から、病院へ行こうか」

 私は頷いた。

 

 旦那さんに運転してもらって、救急病院へ行った。

 長く続く薄暗い廊下を通って、受付を目指す。

 受付で症状を簡単に説明する。

「身体のあちこちが痛い。さらに、片側の脇腹も痛む」 

 受付の人が言う。

「内科ですか?外科ですか?」

 思わず、「どっちがいいですか?」と聞き返す。

 

 よく分からないので、外科で見てもらうことになった。

 症状を説明するも、お医者さんは首を傾げる。

「腎臓ではなさそうですし・・・」

 症状から、思い当たる病気がないらしい。

「一応、レントゲンを撮ってみますが、妊娠している可能性はありますか」

 全く、わからない。

 ただ、「可能性はあります」と答えておいた。

 レントゲンを撮る前に、血液検査と妊娠しているかの検査をすることになった。

 血液を採り終え、旦那さんのいる待合室に行く。

 旦那さんはうつらうつらと眠っていた。

 起こして、今の状況を説明する。

 そして、中の待合室へ一緒に行き、私はベッドに横になる。

 

 しばらくすると、仕切りのカーテンから、お医者さんが顔を覗かせた。

「陽性です」

 えっ。

 まさかのことに、驚きを隠せない。

 私、お母さんになれるんだ!

 身体の痛みが、嘘みたいに引いていく。

 寝ぼけ眼の旦那さんが呟く。

 「ヨウセイってなんですか・・・?」

 ここで、旦那さんのことを一応擁護すれば、旦那さんもまさか、こんなにも早く子供が授かるは思っていなかったので、思わず発してしまった言葉らしい。

 ただ、私は旦那さんの心境をその時は分かっていなかったで、付き合ってから初めて旦那さんのことを『この人、馬鹿だったんだ』と思ってしまった。

 

 お医者さんから告げられて、喜んだのもつかの間だった。

 お医者さんは続けてこう言った。

「お腹が痛いのが気になります。もしかすると、妊娠が原因で症状がでているかもしれません。ただ、本院には産婦人科が無いので、今から産婦人科のある病院へ転送します」

 なんと、救急車に乗って違う病院へ行くことになってしまったのだ。

 妊娠したと知った私は、気分的なものなのか、お腹の痛みもなくなってきたように思えたし、できれば大事にはしたくなかった。

 なので、「後日、改めて病院へ行きます」と答えると、「緊急の可能性があるので、すぐに診てもらった方がいい」と返される。

 ただ、肝心の『なんの』可能性があるのかは教えてくれない。

 仕方ないので、『深夜に、沢山の方々にご迷惑をおかけしてごめんなさい』と思いながら、救急車に乗った。

 旦那さんは病院まで車で来ていたため、救急車の後ろを車でついていくことになった。

 

 産婦人科のある病院に着くと、すぐに、おそらく救急に運ばれた。

 お医者さんが早速、私の服を捲り、お腹にエコーを当てる。

 そして、焦った様子で「見えない、見えない」と言う。

 何が見えないのか、さっぱり分からない。

 ただ、お医者さんのただならぬ雰囲気から、あまりいいことでないことだけは伝わる。

 一本の電話が鳴る。

産婦人科の先生がいらっしゃるそうです」

 私を診ていたお医者さんが「助かった」と漏らす。

 

 私はそのまま、産婦人科の先生がいる所に連れていかれた。

 そして、今度は、産婦人科の先生による経腟エコーを受ける。

「ないですね・・・」

 また、同じことを言われる。

 それから、旦那さんと一緒に、先生から説明を受ける。

 妊娠している場合、子宮内に胎嚢が見つかる。

 けれど、私の子宮内を見た限り、胎嚢が見つからないのだ。

 その場合、子宮外妊娠の可能性がある。

 子宮外妊娠は、発見が遅いと母体の命に係わる。

 分かった時点で、すぐ、手術をしなければならない。

 ただ、私の場合、この時、妊娠して一か月いくかいかないかくらい。

 まだ、見えてないだけの可能性もある。

「なので、血液検査をして、今の段階で、子宮外妊娠をしているかどうかを調べます」

 お医者さんは分かりやすく説明してくれる。

「すみません。もし、子宮外妊娠をしていたら、どんな手術をするんですか」

「まだ、分かりませんが、卵管をとります」

「卵管をとったら、今後、妊娠する可能性が減りますよね」

「・・・そうですね」

 一瞬、頭の中が真っ白になる。

 そもそも、普通に妊娠することだって、簡単にできることじゃない。

 その可能性を、今から子供を作ろうとしているこの段階で、減らすことになるとは・・・。

「せめて、詰まっている受精卵を子宮に戻すことはできませんか」

「うちではやっていません」

 再び、奈落の底に突き落とされたような気分に陥る。

 せっかく授かったのに、産んであげられないかもしれない。

 申し訳ない気持ちで、いっぱいになる。

 

 その後、血液検査の結果を待ちながら、私はベッドの上でひたすら泣きつづけた。

 旦那さんに検査結果を待たなくていいから、早く家に帰ろうと何度も言った。

 卵管で妊娠しているとしても、少し大きくなったら取り出して、子宮に戻せばいいとか。

 滅茶苦茶なことを口走った。

 妊娠している。

 そう分かった時点で、私はすでに母親になっていた。

 お願いだから、私の子供を取らないで!

 もう、その一心だった。

 

 泣き続ける私の横で、旦那さんは、結果次第では私が受けるであろう手術の書類にサインしていた。

 私が「絶対にサインなんかしない」と断固拒否したからだ。

 分厚い紙束一枚一枚に目を通しながら、サインしつつ、なおかつ、私をなだめなければならない旦那さんの気苦労はいかほどだったろうか。

 本当に、気の毒だったと思う。

 

 血液検査の結果が出た。

 まだ、今の段階ではわからない、というものだった。

 一旦、家に帰り、また後日、改めて検査することになった。

 ただ、お腹が痛かった場合はすぐに病院へ来るよう言われた。

 病院を出たら、夜が明けていた。

 心も身体もすっかり疲れ切っていた。

「帰ったら、寝ようか」

 そんなことを言い合いながら、車へと戻った。

 

 家に帰ってから、再検査を受けるまでの間、心の内は複雑だった。

 妊娠したかもしれないという嬉しい気持ちもあったけれど、もし、子宮外だったらどうしよう、という気持ちもあった。

 万一に備えて、入院の準備もした。

 何度も、何度も、『どうか、子宮内にいて』と願った。

 

 ある朝、夢から目覚めようとした時、どこからか声が聞こえた。

『もう、大丈夫』

 誰とも分からないその声は温かくて、なぜだか、涙がぽろりとこぼれ落ちた。

『あの声は、なんだったのだろう』

 目が覚めてから、ずっと考え続けた。

 ただ寝ぼけていただけのことかもしれないのに、なぜだか気になった。

 掃除をしている時に、ふと、自分のペタンコのお腹が目に入った。

 まさかね、と思う。

 でも、そうだったらいいなあ。

 そんなことを思いながら、お腹をそっと撫でた。

 

 再検査の日が来た。

 旦那さんはどうしても外せない仕事があって、代わりに母が付き添うことになった。

 母とは病院で待ち合わせた。

 私は、トランクを片手に病院へ向かった。

 病院に着く。

 総合病院だから、とにかく広い。

 前に来た時は、運んでもらえたからよかったけれど、自分で行くとなるとどこへ行けばよいのか、さっぱり分からない。

 案内図を頼りに進んでみるが、何度も途中で迷う。

 ようやく、産婦人科近くにたどり着いた頃には、すっかり母との待ち合わせ時刻に遅れていた。

 産婦人科の受付で、母が受付の人と揉めていた。

 慌てて、近くに駆け寄る。

 母が何度も受付の人に、私の名前を言っている。

 受付の人は、名簿らしきものを何度も捲っている。

 でも・・・。

 母の肩を後ろから叩く。

 母が振り向き、「遅い!」と言う。

「どこかで倒れてたらどうしようと思って、気が気じゃなかったわ」

 ごめん、と謝る。

 それから、「私、結婚したから、苗字変わってるわよ」と付け加える。

 母がはっとした顔になる。

「焦ってたから、すっかり忘れてたわ」

 そう。母は受付の人に、私の旧姓の名前を伝えていたのだ。

 見つかるはずがない。

 

 順番が来るまで、しばらく待つ。

 この結果次第では、天国にも地獄にもなる。

 怖くて仕方なかった。

 名前が呼ばれ、診察室に入る。

 前に診てもらった時と同じ先生だった。

 早速、経腟エコーをしてもらう。

 白黒の画面に子宮内の様子が映し出される。

 画面の真ん中に、小さな楕円形のようなものがある。

 これは・・・?

「おめでとうございます。子宮内に胎嚢があります」

 先生の言葉に、じわりと涙が浮かんでくる。

『良かった。ちゃんといてくれた』

 後ろで、大きな泣き声がした。

 振り向くと、母が大粒の涙をぽろぽろと流していた。

『ああ。また、派手に泣いている』

 そう思ったら、なんだか笑えてきて、涙はすっかり引っ込んでしまった。

 

 診察が終わった後、私はすぐに旦那さんと、旦那さんのおかあさんに電話した。

 ふたりとも喜んでくれた。

 私と母は病院を出たところで別れた。

 母と別れた私は、持ってきたトランクをまた引っ張りながら、家に引き返した。

 その日はちょうど、気持ちのいいほどの晴天だった。

『私は一生、この日をわすれないだろう』と思った。

 絶対に、失いたくないと思った命だった。

 そして、ちゃんと、私のところに来てくれた。

 本当に、感謝してもしきれない。

 

 上の子ちゃんを産んだ時のことも、勿論、覚えている。

 でも、この日のことが一番、私は心に残っている。

 きっと、これから、反抗期やら、いろいろとあるだろう。

 それでも、この時の気持ちだけは、ずっと忘れないでおきたいな、と思っている。