死んだらどうなる
親戚が亡くなった。未だに、こういうことは慣れない。胸の奥底に、なにかずしりと重たいものが圧し掛かってくる気がする。
子供の頃、『死』というものが怖かった。自分の大切な人がこの世からいなくなってしまう。想像しただけで、胸が張り裂けそうだった。だから、夜寝る前にいつも布団の中で、「どうか、皆がずっとずっと長生きしますように」と願った。
私の親族は幸い、皆、長生きだった。だから、近しい人が亡くなるという経験をしたのは、ほんの数年前のことだ。
大好きな祖父だった。どんな些細なことでも、必ず感謝の心を忘れず、頭を深々と下げた。人から求められればいつでも、快く手を貸した。
歩いていると、よく話しかけられた。
「今日もいい天気ですねえ」
「本当にそうですわ」
知り合いかと尋ねたら、全く知らない人だという。いつもニコニコしていて、誰にでも親しみのある雰囲気を醸し出していた。
私は祖父の家に行くと、いつも祖父の傍に居た。祖父の傍は居心地がよかった。祖父は私に優秀であることを求めなかった。いつも私の好きなことを褒めてくれた。絵を描くこと、作ること・・・。祖父の傍で私はのびのびとしていられた。
私はよく祖父と散歩をした。散歩しながら、祖父は色々なことを話してくれた。そのことを母や叔母に話すと驚かれた。母や叔母にとって、祖父は寡黙な人だったのだ。だから、祖母以外の親族で、一番、祖父と話していたのは私だと勝手に自負している。
祖父は私に対して、何か強く望むようなことはしなかった。ただ、一度だけ、しつこく言われたことがある。
結婚だ。
それまで、何も言わなかったのに、二十代後半になって、急に言い出した。
「じいちゃんは、27歳までに結婚した方がいいと思うんだ」
面食らった。その当時、26歳。祖父の言うリミットまで残り僅かしかない。
「じいちゃん、それは無理だ。そもそも、付き合っている人がいないし、27はもう目の前だよ」
私がそう返すと、「いや、そうだとしても」と食い下がり、果ては、私の結婚式を見るまでは、死んでも死に切れん、と言い出した。私は開き直って、当分、結婚する気もないし、その間、じいちゃんが長生きしてくれるなら、そんな嬉しいことはない、と答えた。祖父は一瞬言葉を失ったが、それでもなお、ぶつぶつと何か言っていた。
今の旦那さんと出逢い、結婚を前提にお付き合いを始めてすぐ、旦那さんを祖父に紹介した。そうすれば、祖父も安心するだろうと思ったのだ。祖父は旦那さんのことをとても気に入ってくれた。そして、旦那さんと会ったその日の夜に、私に電話を掛けた。
祖父は上機嫌だった。開口一番、いい子だったなと旦那さんのことを褒めてくれた。そして、こう尋ねてきた。
「で、式はいつ挙げるんだ」
今度は私が絶句した。その当時、まだ旦那さんとは付き合い始めて、一か月あまり。さすがに、気が早すぎるでしょ、と思った。
旦那さんと結婚し、子供が生まれた。祖父はひ孫の誕生を喜んでくれた。遊びに行くといつも椅子に座って、にこにこと子供たちの様子を眺めていた。
それくらいの頃からだろうか。私は祖父の死期が段々と近づいてきているような気がしていた。私はぼんやりと、できたら、一度、祖父と思う存分、思い出話をしたいなと思っていた。
上の子が幼稚園に入ってから、しょっちゅう風邪を引くようになった。私は看病に明け暮れる日々が続き、なかなか祖父の所へ顔を出すことができなくなった。その間に、祖父は腰を悪くし、歩くことがほとんどできなくなった。さらに、一日中座っているだけだったので、呆けてきてしまった。
久しぶりに会った時、私は、祖父のあまりの変化に言葉を失った。祖父は椅子に座ったまま、ほとんどの時間を寝ているようだった。時々、うっすらと目を開けて子供たちをぼんやりと眺めることはあったが、それはほんのわずかな間だけで、また、目を閉じてしまう。会話もほとんどなく、帰り間際に「またおいで」と少し話す程度だった。
祖父の体力はどんどん落ちていった。風邪をこじらせ、肺炎になり入院した。私がお見舞いに行くと、祖父は車いすに乗っていた。私が話しかけると、祖父は声を出した。一生懸命話してくれていた。でも、それは音の羅列で言葉になることはなかった。祖父は、もう喋ることができなくなっていたのだ。
私は必死に相づちを打った。祖父と沢山話してきたと自負していたのに、祖父が何を言いたいのか、私には全くわからなかった。情けなくて悔しくて、私は泣きながら、祖父の声を聞いていた。
その日はなかなか帰ることができなかった。祖父と離れたくなかった。でも、時間は刻一刻と過ぎていく。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
私がそう言うと、祖父は胸の前で手を合わせ、私に深々と頭を下げた。
さすがに、祖父が何を伝えたいのか分かった。
「じいちゃん、それは私のセリフだよ」
最後の最後まで、泣いてしまった。
次に、祖父に会った時、祖父はずっと眠っていた。「来たよ」と耳元で声を掛けたら、小さなうめき声をあげた。でも、それきりだった。
私は祖父としたかった思い出話をした。祖父とよく一緒に絵を描いたこと、祖父がよく連れて行ってくれたところ、祖父と旅行した場所。思い出は沢山あって、私は思い出せる限り全ての祖父との思い出を一人でしゃべり続けた。喋りながら、祖父は今、どんな気持ちで私の話を聞いているのだろうと思った。きっと、私に言いたいことの一つや二つはあるだろう。ほんの一言でもいいから、祖父の言葉が聞きたかった。
祖父が亡くなった。私は祖父の最期に立ち会えなかった。でも、他の親族皆が見守る中での旅立ちだった。
それからはあっという間だった。お通夜があり、お葬式があった。
祖父と最後のお別れをする時、私は祖父の手を握った。血の通っていない手はひんやりと冷たく、その質感はゴム手袋を思わせた。これが『死』か、と思った。祖父は永遠にいなくなってしまった。
祖父が亡くなっても、私の日常は続いてゆく。私は、時折り、祖父のことを思い出しては泣いた。
ある日、ぼんやりと床に座り込んでいたら、上の子ちゃんが突然、抱きついてきた。私は、反射的に上の子ちゃんを受け止めた。温かくて柔らかくて、微かな息遣いを感じた。ああ、生きているのだな、と思ったらなんだかほっとして、思わず、ぎゅっと抱きしめた。上の子ちゃんが身をよじる。
「ごめん、もう少しだけこうさせて」
上の子ちゃんを抱きしめながら、子供って生命力の塊だな、と思った。不思議と少しずつ、心が満たされていく。
「ママ、大丈夫」
腕を緩めると、上の子ちゃんが心配そうな顔をして尋ねてきた。大丈夫、とはまだ答えられそうもなかった。でも、おかげで、まだ、頑張れる気がした。
「ありがとう」
そう言った瞬間、祖父の顔が頭の中に浮かんだ。
もしかして、じいちゃんは私がこうなることを心配していた?
急に頭の中の思考が動き出す。
祖父は私の心が脆いことも、祖父を心の拠り所にしていたことも、分かってた。
だから、自分が死ぬ前に、私の新たな心のよりどころとなる場所を作っておこうと思った。
それで、私に『結婚』なんて言い出した。
死んでも死に切れん、か。
祖父の真意は分からない。
でも、お陰で、私は救われている。
親戚が亡くなった日の夜、下の子ちゃんの髪をドライヤーで乾かしていたら、下の子ちゃんが物騒な歌を歌い出した。
「ママも、ばあちゃんも、パパも、みんなみんな死んだらどうなる~?」
このまま続けさせるかどうか悩む。
「どうなるの?」
一応、答えを聞く。
「土に埋まって、骨になって、またみんな、戻ってくる」
「戻ってくるの?」
思わず、聞き返すと、下の子ちゃんがにかっと笑う。
「そう。だから、大丈夫」
昔、布団の中で泣いていた自分を思い出す。
あなたはちゃんと乗り越えられそうだね。
下の子ちゃんの髪をなでながら、そんなことを思ってしまう。
死んだら、そこで終わるのか、それとも繰り返すのか、はたまた全く違うのか。
私には分からないけれど。
ただ、もし、私が逝くときは、見送ってくれる人たちに何かを残せる人になりたいなと思った。