パンを焼く
朝、目が覚めると、遠くの方から微かにウィーンウィーンと機械の動く音がした。
久々に聞く音だ。
もうそろそろ、焼きの工程に入るかな。
布団の中で、いい匂いが漂ってくるのを待つ。
けれど、いくら待っても、匂いがしない。
まだ、焼けてないのかな。
気になって、様子を見に行く。
近づくと、辺りにほんのりとパンの焼ける匂いがした。
どうやら、焼いてはいるようだ。
パン焼き機の前に立ち、真っ白な蓋を見て思った。
そうか、実家のパン焼き機とは違うんだった。
実家のパン焼き機は蓋に小窓がついていて、中が見える。
つまり、蓋が一枚なのだ。
けれど、このパン焼き機は蓋が二重になっている。
その分、匂いが漏れないのだろう。
部屋中に漂うパンの香りを嗅ぎながら、目覚められたらいいな、なんて思っていたから、ちょっと残念。
液晶画面を見ると、焼きあがりまであと15分。
パン焼き機の近くに椅子を寄せ、パンの焼ける匂いを嗅ぎながら目をつむる。
私の母は料理を作るのが好きな人だった。
今は年を取ったせいか、作るのを面倒くさがるけれど、和洋中、一応、なんでも作れる。
そして、パンも時々作ってくれた。
一番古い記憶は、ヨモギの餡ロール。
母は甘いのがあまり得意ではなかったから、中の餡子は少しだけ。
口に入れると、ほんのりとヨモギの香りが鼻を抜け、噛むと控えめに入った餡が生地と混ざりあい、素朴な優しい味がした。
それから、私がよく母にねだったのが、手作りのピザ。
パン生地をこね、綿棒で薄く延ばして、その上にピザソースをたっぷり塗る。
具材はピーマンとミニトマトと軽く電子レンジにかけたタマネギのスライス。
最後に、ミックスチーズをたっぷりかける。
オーブンに入れ、チーズに軽く焦げ目がついたら出来上がり。
もちもちとした食感の生地にたっぷり野菜をチーズの乗せたピザは、食べ応え抜群で、いくつでも食べられた。
私が食物アレルギーになってからは、母は天然酵母のパンを作り始めた。
レーズンやリンゴの皮、米麹などを発酵させた酵母でパンを作るのだ。
ただ、これは作るのがなかなか難しい。
生きている菌を使うから、気温などその時々の条件でパンの出来が変わってしまう。
膨らまず、目が詰まった重いパンが出来たり、発酵し過ぎて酸味が強く出たパンが出来たり。
母は試行錯誤を繰り返しながら、多分、母自身、作るのを楽しんでいた部分もあるけれど、私のために美味しいパンを作ろうとしてくれていた。
大学進学を機に、私は実家を出た。
その時、母がパン焼き機を持たせてくれた。
だから、大学生の頃はよくパン焼き機でパンを焼いていた。
初めてパン焼き機でパンを作ったとき、全く膨らまなかった。
その後、二回ほど手順通りに作ってみたが、やっぱり膨らまない。
おかしい、おかしい、と思っていたら、ある日、気づいた。
イーストだと思って入れていたものが、ベーキングパウダーだった。
なんでこんな初歩的なミスをしたのか分からないけれど、その後は順調に焼けるようになった。
前日の夜にパン焼き機をセットした朝は、いつもパンのいい匂いで目が覚めた。
パン焼き機の蓋についている小窓から中を覗くと、淡く茶色に色づいたパンの表面が目に入る。
今日も、おいしそうに焼けている。
なんとも、至福のひとときであった。
結婚して、子供が生まれたら、いつか一緒にパンを作りたいと思っていた。
けれど、実際は、子育てに忙しくて、なかなか実現できなかった。
今回、大型連休に入って、子供ちゃん達が騒ぎ始めた。
「遊園地へ行きたい」
「イルカさんと一緒に遊びたい」
一応、コロナワクチンの接種は受けた。
けれど、やっぱり、外出は怖い。
「ごめん。お腹に赤ちゃんいるから、我慢してくれるかな」
コロナ禍になってから、ここ数年、ずっと出かけられていなかった。
それでも、子供ちゃん達は、分かったと納得してくれた。
そんな子供ちゃん達に、なにか少しでもいい思い出を作ってあげたいと思った。
そんな時、ちょうど、子供ちゃん達が「パンを作りたい」と言っていたのを思い出した。
そして、今回、作ってみることにしたのだ。
パン焼き機は親族の人から借りた。
初めはパン焼き機に全行程をお任せして、出来立てのパンを味わってもらう。
そして、二回目はパン焼き機に生地まで作ってもらって、成形からは子供ちゃん達とやってみようと考えた。
そして、初回。
材料は旦那さんが買ってきてくれた。
なんと、『生食パンのもと』というのが売られていたらしい。
これと、イーストと水を入れるだけ。
旦那さんが興奮気味に話す。
私は、こんなものがあるんだと感心しつつ、袋の裏に表示されている原材料をざっと見る。
「まあ、お砂糖がたっぷり入っていること」
呟いて、はっとする。
なんとも、可愛げのない妻だ。
旦那さんがしょんぼりした顔で、「きっと、美味しい生食パンができると思うんだよな」と言う。
本当に、ごめん。
慌てて、「ありがとう」とお礼を言う。
早速、パン焼き機に材料を入れる。
生食パンのもとだけでは足りなかったので、強力粉を少し入れた。
あとは、タイマーをセットして、明日の朝に焼けるようにした。
そして、現在に至る。
子供達は寝室でぐっすり寝ている。
一向に起きる気配がしない。
私はうつらうつらとしながら、椅子に座ってパンが、焼けるのを待つ。
ピロリロリン。パンが焼きあがりました。
パン焼き機からアナウンスが流れる。
この後、どうするんだっけ。
説明書に慌てて目を通す。
とりあえず、型から出して冷ますらしい。
そっと、蓋を開けてみる。
ひょっこりと山形に焼きあがった食パンの頭が見える。
ああ、いいなあ。
私は急いで寝室に行き、子供ちゃん達に声を掛ける。
「パンが焼けました。焼き立てパンが見たい人は起きてきてください!」
子供ちゃん達が一斉に目を覚まし、パン焼き機の周りに集まる。
「ではでは、行きますよ~」
蓋を開けると、ほんのりと湯気が上がる。
中には、表面が軽く茶色に色づき、ふっくらと焼けた美味しそうな食パンが鎮座している。
わあー。子供ちゃん達から歓声が上がる。
「なんか、よだれ出てきちゃった」と、上の子ちゃんが言い、「早く食べたい」と、下の子ちゃんが騒ぎ出す。
「よし、じゃあ、ちぎって食べちゃおう」
焼き立てパンは柔らかいから、包丁では切りにくい。
でも、冷めるまで待っているのはもったいない。
早速、型から取り出して、ザルの上にあけた。
「では、どうぞ」
アツアツのちぎったパンを渡す。
子供ちゃん達は息をフーフーと吹きかけながら、パンを頬張る。
「美味しい!」
「美味しい!」
子供ちゃん達の笑顔を見ていると、見ているこちらも嬉しくなってくる。
「じゃあ、まずは服を着替えておいで。そしたら、パンを食べよう」
子供ちゃん達が服を着替えに走っていく。
どうやら、初回は成功したようだ。
良かった、と、一安心。
今度は子供ちゃん達と、パンの成形にチャレンジだ。
母とは色々あったけれど、決して辛い記憶だけ残っているわけじゃない。
愛された記憶も幸せだった記憶もしっかりと刻みこまれている。
そういう記憶は、子供ちゃん達にも受け継いでいきたいな、と思っているから。
私のパンの記憶は、幸せな記憶が詰まったもの。
子供ちゃん達にもちゃんと伝えられるといいな。
そんなことを思いながら、小さくちぎった熱々の食パンを口の中に放り込んだ。