心残り
妊娠してから、食べ物断ちをしている。
お刺身、青カビチーズ、甘い物。
お刺身は、夏が近づき、段々暑くなってきて、万一、食中毒の類にかかるといけないから。
青カビチーズは熱を加えれば大丈夫だとは思うけれど、万一の場合、リステリア菌に感染する可能性があるから。
甘いものは、現在、妊娠糖尿病を患っていて、量にもよるけれど食べると血糖値が上がってしまうから。
どれも、私の好きな物で、普段からではないけれど、時々無性に食べたくなってしまうものだ。
だから、「無事、出産したら、絶対に食べてやる」と旦那さんに言っている。
そして、旦那さんは「食べろ、食べろ」と返してくる。
先日、近所のケーキ屋さんで杏仁豆腐を売っているのを見かけた。
夏にしか売られていなくて、去年は時季を逃して食べ損ねていた。
『今年は食べるんだ』と意気込んでいたら、今は悲しいかな、糖分断ち。
仕方ないから、「出産したら、買ってきてね」と旦那さんに頼んでいる。
ある晴れた暑い日のこと。
旦那さんと一緒に歩いていたら、無性に、水羊羹が食べたくなった。
近所の和菓子屋さんで売られている、これまた夏季限定の水羊羹だ。
甘さ控えめで、つるりとしたのど越し。
冷蔵庫でしっかり冷やして食べるのがお勧めだ。
「あーっ。食べたい!」
思わず、口に出したら、旦那さんが「今から買ってくるか」と言う。
その日はちょうど妊婦検診で、血液検査を受けてきた。
血糖値についてはすぐその場でわかり、とりあえず、低くて安心したばかり。
ここで食べたら、また、気が緩んでしまいそうで、「やめとく」と返しておいたのだけれど。
昼食の準備をしていたら、急に頭の中に、出産したら食べたいものが色々と浮かんできた。
我慢できず、全部口に出し、「出産したら、食べるもんね」と付け加える。
旦那さんが横で、「うん、うん」と相づちを打つ。
そう思っていたはずなのに、なぜか、御飯を茶碗によそっていたら、ふと、恐ろしいことを想像をしてしまった。
いやいや、と慌てて打ち消すが、自分の胸だけには収まりそうもない。
「ねえねえ」
傍に居る旦那さんに話しかける。
「もし、出産のときに死んじゃったら、私、全部、食べられないんだよね・・・」
よく分からないのだけれど、それだけは嫌だな、と思ってしまう。
ずっと、我慢しているのだ。
ようやく、もう少しで食べられる、というところで事切れるのは、納得いかない。
「やっぱり、食べたいときに食べといた方がいいんじゃないか」
旦那さんの言葉に、私の心が一瞬揺らぐ。
一応、出産は二回経験しているわけだから、今回も大丈夫だとは思っている。
でも、何事にも、万一、はある。
だから、もしもの場合に備えて後悔しないよう、出産する前には必ず毎回、旦那さんと子供ちゃん達にちょっとした手紙を書いておく。
そして、無事終わったら、恥ずかしいから、全部処分する。
「今日はやめておくけれど、ただ・・・」
頭に浮かぶのは、某ケーキ屋さんの杏仁豆腐。
これだけは食べておかないと、私は成仏できそうにないらしい。
出産するまでは、我慢しようと心に決めていたはずなのに・・・。
『念の為、出産予定日の数日前くらいになったら、杏仁豆腐だけは食べておこうかな』
そんなことを、思ってしまったのであった。